
調理において、ある決定的な瞬間についてよく考えることがあります。それは、有機的な物質が、単に季節の証人であることをやめ、その季節を「書き換える」ものへと変わる瞬間です。熟したイチジク、キノコの香り、湿った森の地面――これらはすでに、世界について多くのことを語っています。料理人が手を加える以前から、そこにはすべてが存在していました。地理、気候、そして大地に刻まれた記憶。それらは、あえて解釈し直す必要などないほどに、雄弁なのです。
私たちの行為には、どこか不必要で、あるいは本来の姿を歪めてしまうような側面があるのかもしれません。結局のところ、料理をする動物は人間だけなのですから。他の生き物たちは、私たちよりも鋭い感覚で世界を捉えていますが、それをわざわざ変容させようとはしません。それなのに、私たちはそうする。素材を組み合わせ、香りを変化させ、食感を広げていく。まるで、私たちが世界と関わるためには、世界を読み解き直すというプロセスが不可欠であるかのように。料理をするということは、世界に対する感覚的な知覚――言葉になる以前に、味や香り、素材が私たちの内に残すもの――に介入する行為なのです。
その瞬間、料理人の所作は脆く、危ういものとなります。なぜなら、「書き換える」ということは、そこに本来あったものを裏切ったり、曖昧にしたり、あるいは過剰に手を加えて覆い隠してしまったりするリスクを孕んでいるからです。しかし、料理という営みは、まさにこの緊張感から生まれるものなのかもしれません。
私はよく、料理と写真を重ね合わせて考えます。どちらも、まずは世界に耳を傾けることから始まり、やがて、その世界を他者に提示するための独自の「言語」を編み出していくという点で共通しています。そこには極めて個人的で、ある種エゴセントリックとも言える側面がある一方で、自身の身体や感覚、知覚を、自分自身よりも大きな何かのために捧げたいという願いも存在します。料理人や写真家は、いわば「媒体(メディウム)」となります。世界に対する知覚が循環するための通り道なのです。彼らが提示するのは、ありのままの世界そのものではなく、彼らというフィルターを通した世界なのです。
素材は、あくまでその本質を保ち続けています。しかし、それらが組み合わされ、変容させられることで、単なる「秋の証人」であることをやめ、秋を「書き換える」ものへと変わる。それは、そこにすでに存在していたものに対する、もう一つの視点なのです。
さて、ここ「ESqUISSE(エスキス)」では、私たちが秋をどのように「書き換えた」のか、その一端をご紹介しましょう。
黒糖でローストしたイチジク、アマゾン産カカオの発酵ムース、ポルチーニのアイスクリーム。カルダモンと黒糖の風味を効かせた、バニュルス・ワインのソースを添えて。
